弱者の多くは助けたい形をしていない②

先に書いたほどの極端な例でなくても、高齢者の多くはあまり関わりたくないと思われがちなのではないだろうか。難聴で会話が通じずイライラした経験は皆あるだろうし、頑固だったり、清潔が保たれていなかったり動作がのろかったり・・・

つまり人が弱者を助けたいと言っているのは、子猫や小さな子どもなど、一般に可愛らしい、守ってあげたくなるような存在である。しかし昨今の高齢化社会、対象を人間に限定するなら庇護の必要な弱者の多くは高齢者なのだ。そしてその弱者達は、あまり助けたい存在たりえない。

「病気に苦しむ人を助けたくて医者、看護師になった」という思いは医療者の多くには(少なくとも建前的には)あるだろう。しかし「寝たきりで疎通の取れない老人の下の世話をしたくて」医療職についた人はいない。先に書いたような患者については仕事だから(仕方なく)治療や世話をするが、誰も心から助けたい、力になりたいとは思っていないのだ。しかし思いとは裏腹に、清潔を保ち、まずまず正しい治療を受けた患者は元気を取り戻し、周りに悪態をつく日常に戻った。一方で私がなんとか力になりたい、元気になってもらいたいと苦心した肺癌の患者は日に日に弱っていき死んでしまっている。人体の生理、治癒には医療者側の気持ちはあまり関係がないらしい。

博愛の心をもって患者に接しようが、いかに教科書や論文を読み研鑽しようが、治療が上手くいかない場合はある。好むと好まざるに関わらず、行う治療は標準治療とされるものだし、手術や医療的な手技も患者が好きだろうが嫌いだろうが同じように行う。精神的な部分はアウトカムに与える要素は大きくない。

かなりオカルティックな話になるが、私は「目で患者にエネルギーを送り込む」だとか、「自分の本気は患者に伝わり、それで患者が元気になる」といった要素を信じているし、実践している。だがこれは悲しいほどに治療の結果に関与しない。どれだけ結果が出なくても続けるのだけれど。

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