好きと得意は中々一致しない。世の社会人たちの多くは好きでもない仕事をして、すなわち好きでもないことのプロとして、人生の時間の多くを費やして仕事をしているだろう。飯が食えるレベルで得意と言えるものがない人が大半だ。要するにある程度誰でもできる、代わりの効く仕事で生計を立てている。私がやっている内科医などその代表だ。所詮少し記憶力が良かったので受験を突破し、精神と身体を壊さずに10年以上続けたので、若い先生より多少経験がある程度だ。
少し好きを掘り下げてみたい。世のサッカー少年たち、数年サッカーを続けている少年たちは大多数は広義にはサッカーが好きだろう。嫌いなら、あるいは好きでないのであれば、あんなに疲れる、泥だらけになる、悪天候でもやるようなスポーツはやめてしまえばよいのだ。義務教育でもないのだからその自由が少年たちにはある。なんとなくでも続ける以上はある程度には「好き」でボールを蹴ることが「楽しい」のだ。私の中学校はサッカーが県で一番強かった。ギリギリレギュラーに滑り込んだ自分はサッカーが好きだったし、楽しかった。しかしレギュラー争いにも絡んでいなかった、補欠の同級生たちはそのほとんどが高校ではサッカーを辞めてしまった。少なくとも部活動に使う労力に「好き」や「楽しい」が見合わなくなったのだ。レギュラーで試合に出ないと「楽しい」は中々実現しない。高校、大学に進むにつれて、段々サッカーを続けている、月に何度もボールを蹴る人は減っていった。30歳代中盤の現在、同級生で今も定期的にサッカーをしている人はほとんどいない。仕事やライフイベントを経てなお一円にもならないサッカーを続けている自分はかなりサッカーが好きと言えるだろう。
得意について考えたい。自分は謙遜ではなく全くサッカーなど得意ではない。飯が食えないなどは当たり前として、地方都市の草サッカーのおっさんたちと互角にボールを蹴り合うようなレベルだし、高校時代もちょっと上手い後輩にあっさりポジションを奪われるようなプレイヤーだった。下手の横好きの典型であり、今はうまいチームメイト、若くて走れるチームメイトの足を引っ張りながら、「それでも11人揃わないよりはましだから」とサッカーを楽しませてもらっている。きっと好きで、得意で、飯が食えるハッピーな人生にはサッカーの才能が必要であった。悲しいほどにそれはなく、サッカー選手になれないことは小学校低学年の時には自覚していた。比較的「得意」であった勉強をすることに決めて医学部に進学し、今もそれで生計を立てている。
好きについてもう少し考察してみたい。本当にサッカーが好きなのか、と。今でも明日はサッカーの試合があると思えばワクワクするし、リーグ戦の降格や昇格がかかった試合でゴールを決めればすさまじい快感がある。普段の練習でもワイワイボールを蹴るだけでも楽しいし、ミスをすれば悔しい。しかし毎日部活動があった時は「今日はサボりたい」と思うことはあったし、ミスが続けば、ボールが来なければいいのにと思うこともあった。サッカーをしていると女子にモテる、頑張っている自分はかっこいいはずだという邪な思いもあった。もっと言えば「サッカーが好きで、今でもやっているよ」という方が「休日は疲れてゴロゴロしながらyoutubeをみています」よりかっこいいと思っている。医療につかれたおっさんになりたくないのだ(かなりなっているのだけれど)。そのためにサッカーを使っている側面もある。「好き」の本質から大きく離れた思いを、サッカーにすら持ち込んでいるのだ。自分の人生でかなり「好き」に近い感情を持つサッカーに対してすらこれだ。いわんや他の事象をや、である。
続く
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