甲南医療センターでの専攻医の自殺について思うこと②

労災の申請がなされ、遺族の方(メディアの露出はお母様)が損害賠償を請求された。その額2億3千万円だそうな。

自分の子どもが死んでしまった場合は、いくらもらっても、何をしてもらっても悲しみが癒えることはない。何百億あろうが、そんなものは子の死の前には意味がない。それでも司法は亡くなった方が今後稼ぐ額から算出して、金額を決める。ご両親、ご家族の悲しみはいかばかりか。お金目的の裁判ではなかろう。どういう計算かわからないが、平均的に医師を定年まで全うすれば、稼ぐ金額は2億どころではない。

どうも病院側は「あくまで自己研鑽であり、若手医師が自発的にやったこと」というスタンスのようだ。しかし件の先生が亡くなられる前年にも、若手医師達が過重労働について申し立てたという。やはり地域の中核病院の若手医師の負荷は大変に大きいものであるようだ。私は市中病院で地域最大規模の病院、中堅の病院で合計6年務めたが、身体的精神的負担は大きかった。他の内科医師も同じような感想である。これが外科系であったり、内科の中でも緊急呼び出しの多い科であればなおさらだ。

この問題について、自分のスタンスはイマイチ定まらない。「契約なのだから、決められた時間だけ働けばよい。自己研鑽も当然労働時間に含まれる」と思う自分もいるし、「病気は9時‐17時に起こるわけではない。調子の悪い患者の診療をしなくて技術など身につかない」とも思う。思いつく無駄の省き方は「意味のない会議、カンファレンスの廃止、短縮」「医師以外にもできる仕事は他のスタッフに」「時間外手当はしっかり出す」など通り一片のものだけだ。

決定的な解決策は

「あるレベル以上の高齢者、ADLの悪い患者は高次医療機関を受診しない」

であると思う。誤嚥性肺炎や尿路感染症はどこで治療しても結果に大差がないのだ。決してそれらの疾患が重篤でないというわけではない。誤嚥性肺炎で呼吸不全の重症例はざらにいるし、尿路感染症で40度の熱が出ていて敗血症性ショックに至っているケースだってままある。それが予後が限定的な患者であれば、より期待寿命の長い人に高次医療機関の枠を空けてあげてもらいたい。仕事の何割かはそういった患者の診療に使う。過去に何度も書いているが、そうした人に最高の治療を施す余裕はこの国にはないのだ。「ある疾患が治った場合に期待できる残り寿命」をなんとなくでも国民全体が意識すること。これが遠回りなようで、高次医療機関の負担を減らすことにつながる。

場末病院と言えば聞こえが悪いが、後2か月で私は高次医療機関から離れ、田舎の病院に転職する。そこでも十分に高齢者の感染症などできることはある。「ゴミ箱症例」などと揶揄されるような疾患はそうした病院にタスクシフトすべきである。

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