小学校時代から勉強ができた。地元の普通の小学校に通っていたが、自分より勉強ができる人はいなかった。昔で言う教育ママだった母は、私に中学受験をさせるべく、少し大きな市の塾に小6の夏から通わせた。サッカーや友達と遊んでいたかった自分は塾にはあまり行きたいとは思わなかったが、親の勧めるがまま、通うことになる。そこで、出会ったY先生が、自分を医師の道に導いてくれたように思う。
小学校では断トツで勉強ができたが、あまり教師に勉強についてほめられた記憶はない。ああ、できてるね、くらいのリアクションだった。今にして思うと可愛げのない、生意気な、少し勉強ができるガキは先生たちはあまり可愛くなかったのだろう。授業中もサボっているし、クラスの行事にも積極的でなかった。しかし中学受験のための塾に行くと、すでに対策を始めている生徒がおり、自分より勉強ができる同級生もたくさんいた。早い子は4年生から対策しているのだ。Y先生は「始めるのが遅かっただけで、一番頭がいいのは君だ」「君はその能力を生かして知的職業につくべきだ」とほめちぎり、これをやるといいと対策を教えてくれた。そして両親の面談の際も「彼の能力には疑いがない。私の教師人生でも有数だ」とまで言ってくれた。そうなると両親もだが、自分もまんざらではない。「自分は頭がいいのか、Y先生が言ってくれたからそうかもしれない」などと勘違いし、Y先生の出す課題はこなすようになった。当然かなり難関の中学受験にも成功した。(色々あって地元の普通の中学校に進学するのだが)。合格の報告にいくと「お前なら受かって当然、これからも勉強をしてその能力を社会の役に立てるんだ」と言われた。
そうした頭がいい、Y先生が言ってくれたという勘違いが、その後の勉強、受験に対する根拠なき自信になった。自分がこの分野では優れている、できるようになるはずだと思えないと人は中々頑張れないものだ。自分より頭のいい、成績のいい生徒はたくさんいて、なぜ自分にそう言ってくれたかは今でもわからない。
教師は生徒ごとに態度を変える。素直な頑張り屋は可愛いだろうし、自分のように生意気なひねくれものはうざいだろう。人間なら当たり前だ。今は当たり前だと思えるが、小学校時代は成人は聖人だと思っており、生徒を須らく導いてくれるような教師を求めていた。あそこまでほめられる、自分の能力を信頼してもらった経験はその後の人生にはない。恩師といえば私にとってはY先生だ。そもそも教育者は「できるやつをもっとできるようにする」か、「できないやつを最低限のレベルに引き上げる」ことが仕事だと思うのだが、そのどちらもできていない教師がたくさんいる・・・気がする。
そのY先生、とある精神疾患を発症され、私の高校在学中に亡くなられたそうだ。もう一度お会いして近況など報告したいが、それはもうかなわない。
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