死に様②

頭がぼけてしまう前に死にたい。歩けなくなる前に死にたい。食べられなくなる前に死にたい。下の世話を他人にゆだねるようになる前に死にたい。これは多くの人が考えるように私もそう考える。胃ろうや気切や人工呼吸器、中心静脈栄養などまっぴらごめんだ。抹消点滴すらいらない(点滴に関しては終活に時間がかかりそうでやらなければならないことがあるのなら期間限定で受け入れるかもしれない)。

この10年でかなり患者やその家族の死への受け入れ方が変わってきたように感じる。再三批判されている「(老衰の)親を助けるために挿管も胸骨圧迫もできることは全てやってください」という人はほとんどいない。最近の主流は「無理な延命や侵襲性の強い処置は希望しない。痛い苦しいのはかわいそうだから緩和的な投薬や処置は希望します。」というもの。

Xをやっているとやれ医者の金儲けで延命しているだの、両親の年金を当てにして延命を希望する家族が多いだのまとはずれな意見も目にするが、そんな医師はいないし、そんな家族もほとんどいない。寿命を迎えつつある老人に延命処置をほどこしても労多くして(経済的な)益少なしだし、年金目当ての延命希望など10数年内科をやってもほとんど見たことがない。世の中の流れか、多少死生観が成熟してきたのか。猫の死と昨今の主流の死生観から感じたことはだんだん猫のような死に近づいてきているのではないかということだ。

「願わくば桜の元にて春死なむ、その如月の望月のころ」

などという大それたことは考えていないが、淡々と生きて、淡々と死んでいきたい。うちの猫のようにね。

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