患者からみた良い医者と、医者からみた良い医者が一致するとは限らない。今回は患者からの信頼は厚いが、医者から見るとさすがにどうなん?といった先生だ。
昨今は様々な場所で高齢者の延命処置の是非が叫ばれている。「親の年金で暮らしています。できることは全てやってください」と希望する、90歳代のお迎えが来そうな患者の家族もいる。さすがに多くはないが。ここまででなくとも、身内、親のこととなると暴走し、疾患や加齢による身体の衰えを受け入れられない家族は多い。いつぞや書いたように、内科疾患の多くは治らず、進行を遅らせる、症状を軽減することが治療の目的となることが多い。
自分はよほどtreatableな状況や疾患でない限り、人工呼吸器を使用する、胸骨圧迫を行うような侵襲的な延命処置には反対である。
食事が摂れなくなった人への輸液、中心静脈栄養も同様だ。人間が寿命に抗おうとすることはおこがましいとさえ思う。
とは言え希望があればやらなければならない。決定権は我々医師にはないのだ。私が病状を説明した場合はほとんどそのような状況にはならないが。早く「寿命なので、そのような処置は適応になりません」と言えるようになってもらいたい。
話が逸れてしまった。B先生としよう。とにかく検査が多く、外来の頻度も多い。気管支喘息が安定している高齢者に毎月のように採血で血算生化や腫瘍マーカーを調べている。まあそれぐらいなら、熱心だなあと許容されるかもしれない。
しかし一度重症の症例や超高齢の症例の入院を担当すると大変だ。ほぼ全例full fightになってしまう。90歳を超えた繰り返す誤嚥性肺炎、呼吸不全に対して「ここを乗り切れば施設に帰られるかもしれない」と家族に話し、人工呼吸器、循環作動薬、輸血、アルブミンの投与と惜しみなく医療資源を投入する。治療が功を奏し抜管、改善となればよいが、そんなに甘いものではない。
肺癌患者に適応のない抗癌剤を、さながら「ブラックジャックによろしく」の主人公のごとく、投与を試みていた時は倫理委員会に怒られていた。
しかし患者やその家族は慕っている。「あの先生はたくさん検査をしてくれて安心」「薬も希望通り出してくれる」「一生懸命やってくれる」
医学的妥当性や、保険診療における適応など患者にはどうでもよいのだ。検査でみてもらっている、希望通りの行動をしてくれることが大事なのだ。
批判的な文章になってしまったが、治療方針や医学的な見解が異なることが多いだけで、この先生も私はまずまず仲が良い。治療方針において、カンファレンスで炎上することはあっても、平時は穏やかな優しい紳士である。
そもそも社会不適合者的な人が好きなのかもしれない。
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